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グラスヒュッテの腕時計

ラドウィッグ 33 duo
Ref. 240 / 241
from JPY 233,200
タンジェント ネオマティック ドレ
Ref. 192 / 192.SB
from JPY 536,800
タンジェント 2デイト ブルー
Ref. 136 / 136.SB
from JPY 475,200
Club Campus 38 endless blue
Ref. 724 / 724.GB
from JPY 264,000

特徴

「グラスヒュッテ製の時計」とは?

グラスヒュッテの腕時計は、ザクセン州グラスヒュッテで製造されているドイツの腕時計を指します。ドレスデンの南、エルツ山麓の東側に位置するこの小さな町は、ドイツの腕時計作りの中心であり、1845年から優れた技術力と美しさを備える精密な機械式腕時計を製造してきました。そして、グラスヒュッテの腕時計は、工業製品としては極めて珍しい原産地名称保護を受けています。     

グラスヒュッテの腕時計を見分ける方法は?

以下に、グラスヒュッテ製の機械式腕時計が持つ独自の特徴を一部ご紹介します。

3/4プレート

3/4プレートは、香箱からムーブメントのガンギ車に及ぶ一枚のプレートで、卓越した安定性を確保します。プレートの外部に出るのはテンプとアンクルのみです。

グラスヒュッテ式巻き止め機構

グラスヒュッテ式巻き止め機構も代表的です。グラスヒュッテの腕時計の巻き上げ機構は、長くカーブした堅牢なはめ込み式ジャンパースプリングでラチェットを支えます。これも安定性の確保に寄与しています。

グラスヒュッテのアンクル脱進機

脱進機の部品が屋根のようではなく直線上に配置されます。歯車のかみ合わせに必要な角度は、脱進機の一方のアームを短くし、アームにしっかりと埋め込まれた先細のピンで実現します。

青焼きネジ

他に注目すべき価値があるのは、青焼きネジと針でしょう。時には今でもスチールを290℃に加熱して、コーンフラワーブルーの色合いを作ることがあります。

サンバーストによる磨き上げ、その他の装飾手法

グラスヒュッテの腕時計作りには、さまざまな装飾手法が用いられています。角穴車や丸穴車に施すサンバースト仕上げが代表的で、中央から放射状に模様が広がり、腕時計を傾けると光の入射角が変化してダイアルが回転するように見えます。グラスヒュッテ・リブ仕上げやペルラージュは、直径が少し大きめの腕時計に施す仕上げとして人気です。また、花柄などの刻印をテンプ受け自体に施すこともよくあり、見逃せない要素の一つです。手の込んだ装飾は、昔も今も変わらず物づくりの純粋な喜びを贅沢に表現するものです。グラスヒュッテ製ムーブメントの長い寿命を考えれば、こうした努力には十分な価値があります。ひとつひとつの部品すべてが交換または修理可能だからです。

精度

腕時計の微調整は、さまざまな温度と姿勢で行います。ノモス グラスヒュッテの腕時計は、6姿勢で調整され、クロノメーター規格による日差わずか数秒という精度を実現しています。

グラスヒュッテの腕時計とスイス製腕時計の違いは?

グラスヒュッテの機械式腕時計がスイス製同様に優れていることは、世界的に知られています。どちらの製造地も法律で保護され、そのためグラスヒュッテの会社には、スイス法人に属する会社もあります。 

製造地と製品の境界制限について言えば、グラスヒュッテの製造地保護は、極めて厳格なジュネーブ製腕時計の品質証明に近いものですが、ジュネーブの品質証明には防水性能やパワーリザーブだけでなく、日付機能についても一定の数値が定められています。 

グラスヒュッテ製の機械式腕時計は、3/4プレート(複数のブリッジによる設計ではない)、グラスヒュッテのサンバースト仕上げ、青焼きネジや針といった特徴で見分けることができます。もちろん、何より明確なのはダイアルの「Glashütte」(グラスヒュッテ)の記銘であり、製造工程の少なくとも50%をグラスヒュッテで実施した場合に限り使用することができます。
 

グラスヒュッテの腕時計はバウハウスの腕時計?

バウハウス学校の教育思想は、芸術と職人の熟練技巧を一体化するものでしたが、その活動期間(1919年~1933年)中に独自の腕時計を制作したことはありませんでした。その意味では、真の「バウハウスの腕時計」は存在しません。しかし、広い視点で見れば、バウハウスの起源となったドイツ工作連盟運動による機能主義のデザイン言語は、20世紀前半のダイアルや腕時計のデザインにも影響を与えています。グラスヒュッテのA.ランゲ社に買収されたプフォルツハイムのウェーバー&バラル社の1937年型ダイアルにも、特にこの影響が表れたものが一つあり、それが半世紀後にノモスが初めて制作した腕時計のインスピレーションになっています。

1990年、ノモス グラスヒュッテを創立したローランド・シュヴェルトナーは、グラフィックデザイナーのスザンヌ・ギュンターとともに初の腕時計のモデルのための研究を進める中で、過去の出版物の中にウェーバー&バラル社の1937年型ダイアルのグラスヒュッテ版を発見しました。スザンヌ・ギュンターが原作のタイポグラフィと比率を再調整し、1992年にノモス初のモデル、タンジェントが市場に登場しました。薄型で機能的、必要最小限の機能に焦点を絞った姿は、バウハウス精神に加えてドイツ工作連盟の精神にも溢れるものでした。そして、ノモスは同年に工作連盟に加盟しています。 

ウォッチファインダー

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価値

グラスヒュッテの腕時計は優れているのか?

間違いなく優れています。グラスヒュッテの腕時計は、高品質の材料、革新的なオリジナルキャリバー、精巧なデザイン、伝統的な製造方法で世界的に価値を認められた機械式腕時計です。「Glashütte」(グラスヒュッテ)という製造地表示が法律で保護され、価値生成過程の最低でも50%を同地で行うことを義務付けているのは、それに相応しい理由があるからです。
ノモス グラスヒュッテの機械式腕時計は、最大95%までグラスヒュッテに所在する自社製造所で製造され、2000年以来、170を超える賞を獲得しています。

グラスヒュッテの腕時計はなぜ高価なのか?

ベージュのスーツを着た手首に、シンプルなデザインの腕時計がつけられている。時計は白い文字盤と薄いストラップを持つ。

グラスヒュッテの腕時計は高価なのでしょうか?グラスヒュッテの機械式腕時計は、2,000ユーロ未満のものから10万ユーロを超えるものまで、幅広い価格帯で提供されています。価格は、製造会社、材料、キャリバー、複雑機構によって異なります。ノモスの腕時計は、1300ユーロ台からお届けしており、高精度機械式キャリバーを搭載した複数の受賞歴を誇るモデルでも、ノモス グラスヒュッテの大部分の腕時計は4,000ユーロ以下でお求めになれます。そしてオート・オルロジュリーのゴールドの腕時計モデルであっても、小売価格は1万6,000ユーロに達しません。

グラスヒュッテの腕時計の価格は上昇するのか?

腕時計の価値によって価格が上昇する可能性は、複数の状況に左右されます。高品質の材料で作られた機械式腕時計は、一つずつすべてのコンポーネントを修理可能で、注意深く大切に取り扱って定期的にメンテナンスすれば、永久に愛用でき、少なくとも価格が下がることはありません。事実、時の経過につれてグラスヒュッテの腕時計の価格が上昇することはよくあり、ゴールドの価格上昇だけでなく、その腕時計によるメリットや付随する体験などにもよります。特にノモスが定期的にお届けする限定エディションは、金銭的価値が上がる可能性が非常に高いのです。いずれにしても、手作業の技巧による高精度と美しさに投資する価値は確かにあるでしょう。 

グラスヒュッテの腕時計はどの程度正確なのか?

グラスヒュッテの腕時計は、高い精度で知られています。機械式腕時計の正確性、つまりグラスヒュッテの腕時計の正確性はキャリバー次第ですが、温度の急変動、衝撃、気圧などの要素も関係します。ノモス グラスヒュッテの腕時計は、日差僅か数秒という精度を誇ります。グラスヒュッテの機械式腕時計の正確性については、こちらで詳しくご覧ください。

由来と名跡、そして伝統の保護

「Glashütte」の読み方は?

「Glashütte」のドイツ語ウムラウト「ü」は、英語圏の腕時計愛好家には発音が難しいものです。実際、英語には「ü」に相当する音素がありません。この発音にトライするには、口元を「ウー」(ドイツ語の「u」)の形にしながら同時に「イー」(ドイツ語の「i」)を発音しましょう。音素記号に慣れ親しんだ人には「ɡlaːshʏtə」という表記も可能です。心配なら、「ヒル (hill)」の発音で「グラスヒッテ」という方が「フーディ (hoodie)」の発音で「グラスフッテ」というよりも近いと私たちは感じますが、きっと好みの問題でしょう。

「Glashütte」の意味は?

ドイツ語の「ガラス工場」で、ガラス製造・加工施設のことです。ガラス製造には、砂、ナトリウム加工物または炭酸カリウム、長石、石灰が必要なため、中世以来、ガラス工場の大部分は山地の森林地帯に建てられました。ドイツ語圏には「Glashütt」、「Glashütte」、「Glashütten」という名の町や地名がたくさんあります。

「グラスヒュッテ製の時計」が保護されるようになったのはいつからですか?

「グラスヒュッテ製の時計」の法的保護に関する問題は、120年前の腕時計産業において既に取り上げられていました。グラスヒュッテ製の腕時計とは、他の場所にはない一定の特徴がある腕時計なのか?一定の性能水準を保証できる時計なのか?それ故に腕時計における「グラスヒュッテ」という言葉は、製造地、種類、それとも品質の印なのか?現在は、その3つがすべて正解と言えます。しかし、まず20世紀初頭の「グラスヒュッテ規定」を目指し、その100年後に再び、法的拘束力のある「グラスヒュッテ規則」を目指す闘いは厳しく、苦い結果に終わることも多々ありました。これは、グラスヒュッテがまず技術的な水準を打ち立て、それから経済的水準を達成したことを物語っています。

グラスヒュッテ規定

「グラスヒュッテ規定」は、1930年にドレスデン商工会議所が「少なくとも本質的な部分」をグラスヒュッテで製造し、高精度の緩急針を備え、「時計として数十年にわたって安定した性能を示した」時計だけを「グラスヒュッテ精密時計」と呼ぶことができる、と定めたものです。

次に、何を「精密時計」とみなせばよいかが検討され、当時一般的だった懐中時計について、ドイツ時計師組合が1904年、「最高品質の受け石、鍛造ヒゲゼンマイ、温度補正切りテンプを備えなければならない。すべての姿勢と温度で極めて精密に緩急調整されるため、ドイツまたはスイスの天文台の精度証明を取得可能であること。」という概要をまとめました。

その後の数年間に渡って、この指針に違反した企業に繰り返し訴訟が提起されましたが、「グラスヒュッテ規定」は製造のどの部分を「本質的」とみなすのかという疑問には答えを出しておらず、法的根拠も構成していなかったため、グラスヒュッテ固有の精密技術を守りながら競合力を維持する闘いは困難なものでした。

グラスヒュッテ規則

1990年以降、グラスヒュッテの腕時計産業に新たに登場した企業の多様性の中でも、「グラスヒュッテ」の品質保証に関する疑問が提起され、裁判を経てついに2022年、立法者が答えを出しました。2022年2月22日から、グラスヒュッテで製造したドイツの腕時計は、グラスヒュッテ規則による法的保護を受けることになったのです。グラスヒュッテ規則に基づく保護を受ける腕時計は、最低でも「必要不可欠な製造工程」の50%をグラスヒュッテで完了したものでなければなりません。そうして初めて、「グラスヒュッテ」という製造地を記銘することが認められるのです。

「必要不可欠な製造工程」の意味も明確化され、「ムーブメントの製造およびケーシング作業ならびに腕時計の最終検査」と定義されました。グラスヒュッテ町の境界内ですべて完了しなければならないのは、ムーブメントの組み上げおよび始動、微調整、ダイアルの組み上げ、針の取り付け、そしてムーブメントのケーシング作業です。
 

ノモス グラスヒュッテの機械式腕時計は、グラスヒュッテ規則の定義に従い、深層的な付加価値を最大95%まで実現します。ノモスの高品質機械式腕時計は、最も微小な部品から革新技術によるキャリバーの開発、ムーブメントの始動に至るまで、175年前にドイツ時計製造の中心となり、今日の世界で最も重要な腕時計製造地の一つとなった場所で実施されるのです。

グラスヒュッテの時計作り 歴史概説

グラスヒュッテの時計作りの歴史は、ドレスデンの時計職人、フェルディナンド・アドルフ・ランゲがエルツ山麓の小さな町に移り住み、国からの融資を受けてA.ランゲ社を創設した1845年にその起源をさかのぼります。ランゲは、スイスを旅した数年間に慣れ親しんだ、

分業を基礎とする時計製造工房をグラスヒュッテに設立しましたが、スイスで一般的だったシリンダー脱進機による時計ではなく、アンクル脱進機によるものを考えました。ランゲは、貧困化した元炭鉱町に住む若者たちを訓練し、ネジ職人、歯車職人、香箱職人、ヒゲゼンマイ職人、針職人、刻印職人、ケース職人に育てました。徒弟期間を終了した彼らは、独立して仕事をしながらランゲに部品を供給するようになりました。こうしてドイツの時計製造インフラは急速に成長し、時計会社の設立を促したためにその数は増え続け、最終的にドイツ全土の中枢を担う時計師訓練校をグラスヒュッテに設立することになりました。ドイツ初の時計師学校は、グラスヒュッテの時計職人、モリッツ・グロスマンを校長として1878年に指導を始めました。

小高い丘の斜面にある、駅の近くの静かな町と建物の風景。緑豊かな背景と穏やかな空が広がる。

当時、時計作りは急速に伸長する産業でした。米国やヨーロッパに鉄道が導入され、人の移動が盛んになると、日常生活で正確に時間を守る手段が必要になりました。1860年代初頭には、すでに80人の時計師がグラスヒュッテの4社のために年間約800個の時計を製造していました。ヨーロッパの他国には、時計と並んで部品やツールも輸出しましたが、米国には通関制限のため、ケースなしの未完成のムーブメントしか輸出できませんでした。しかしこれは、長年グラスヒュッテの時計師たちの安定した収入源となりました。

技術的にも革新家だったランゲの目標は、最大の信頼性を届けつつ洗練さとエレガンスを実現することでした。部品の寸法にメートル法を採用し、ムーブメント用カバーのブリッジによる一般的な設計を3/4プレートに変更し、トッププレートに巻き止め機構を埋め込み、カギなしで機能する安全かつ正確な巻き上げ方式を開発しました。また1870年代初期から、グラスヒュッテの時計にはグラスヒュッテ・サンバーストで装飾が施されています。これは中央から丸穴車と角穴車に放射状に広がるカットで、腕時計を傾けると光の入射角が変化し、ダイアルが回転するように見える仕上げです。そして1874年には、グラスヒュッテで女性向け腕時計、25ミリ径の秒針付きモデルが作られました。

グラスヒュッテの時計産業は、米国のウォルサムが1876年万国博覧会で発表したような、もっと幅広い市場向けの安価な時計の機械による連続製造に長い間抵抗を続け、そこから身を守ってきました。とりわけ、A.ランゲ&ゾーネは、グラスヒュッテの時計を技術的に単純化する、あるいは輸入品を利用してもっと安価に製造しようとする20世紀初頭の試みに繰り返し反対しました。しかし時代は移り変わって戦争が始まり、グラスヒュッテの製造所が財政的に持ちこたえるには、伝統的な時計製品群だけでは不十分でした。そして限られた市場向けの高級な懐中時計作りを一筋に貫いたグラスヒュッテと同地の事業は1914年に崩壊したのです。多数の労働者がやむを得ず解雇され、グラスヒュッテの各工場は、軍用機器を含む軍需注文を通じて、かろうじて生き延びたに過ぎませんでした。

1918年以来、グラスヒュッテの時計師たちは、競い合って共同製造事業によるもっと安価な懐中時計の販売を試みましたが、生産数の増加にもかかわらず、経済危機でこの試みは失敗しました。

第二次大戦中、A.ランゲ&ゾーネでは、航海用クロノメーターに重点を移動しました。グラスヒュッテで強制労働が使用された記録も残っています。最大3,000名の捕虜が12時間交代で、グラスヒュッテの精密機器工場や時計工場で働かされ、クロノメーターだけでなく遅動ヒューズも製造しました。グラスヒュッテ・ドイツ時計博物館では、これについて研究を続けています。

1945年、ソビエトの軍事政権がグラスヒュッテ時計産業をほぼ完全に解体し、賠償物資を得ました。残った部署は収用・併合され、1951年に東ドイツの国有企業、グラスヒュッテ国営時計会社 (GUB) が誕生しました。自社製キャリバーによる機械式腕時計を製造した同社は、1960年代になると自動巻き、具体的にはSpezimaticシリーズの超平坦な特別の自動巻きキャリバーの製造も開始しました。クォーツ式腕時計、マリンクロノメーター、その他の機器も製品群の一部となり、商品の大部分は輸出を目的とするものでした。

1990年、ベルリンの壁の崩壊後、GUBの民営化を信託公社が引き継ぎ、数多くの新しい会社が創業してグラスヒュッテの腕時計作りの歴史を加速しながら今日に至ります。グラスヒュッテを見下ろす歴史に名高い天文台も再建され、運営を再開しました。ここに設置されたクロノメーター検定試験場も、グラスヒュッテの精密腕時計製造の伝統を生かし続ける重要な一歩となったのです。

受賞歴を誇るノモス グラスヒュッテの腕時計

タンジェント
Ref. 101 / 139
from JPY 325,600
タンゴマット GMT
Ref. 635
JPY 875,600
ラドウィッグ
Ref. 201 / 205
from JPY 316,800
チューリッヒ デイト
Ref. 802
JPY 853,600

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